桶の中のラ・マルセイエーズ
轟 俊
鉄格子の向こうから薄い白い患者服を着た幾人かの女性たちがこちらを覗いている
手探りする闇の中でスポットに照らし出されて
ヴィーナスの誕生のヴェスブッチ嬢のような優しい顔をして
若い女性も覗いている
山高帽を被ってステッキを持った黒いマント姿の厳めしい顔をした中年男は
その口元を頑なに閉じ 鋭い視線をじっと注いで
鉄格子に囲まれた向こうの狂気の世界の成り行きを監視している
鉄格子のこちら側と向こう側
一体どちらに狂気があって正気があるのか
一体どちらに束縛があって自由があるのか
シャラントンの病院の鉄格子のなかで
ジャン・ポール・マラーはバス桶に浸かり
コルデー嬢は軽業師のように鉄の檻を優美につたう
そして研ぎ澄まされた短剣を後ろ手に隠して
こっそりと忍び寄る
マラーの左胸奥 その短剣は忠実に歴史を再現する
君よ!桶の中からラ・マルセイエーズが聴こえるか?
今 自由!平等!博愛!はどこにあるのか……
『詩と思想』2013年7月号 収録(改稿)
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